September 06, 2003
竹久夢二 『砂がき』 より。 其の参
カリガリ博士
活動寫眞といふものはさう好きではない。殊に主題の淺薄な、プロツトの出鱈目な米國物を喝采してゐる觀客の氣が知れない。機械的に大がゝりな、氣の若い安價な彼等のイージーゴーイングな生活は、彼等の國民性だから仕方がないとしても、どの役者も、いたるところで見得を切る、ある動作にうつるまへには必ず、きざな身振りでまづ觀客の注意を引く、あれが實にいやだ。可笑しいことにあの世界の田舍物らしいメリケンスタイルを、マツチのすりやう、手の振りやう、肩の搖り方、歩き方、首の振り樣まで眞似て、銀座の歩道や、カフエーや、帝劇の廊下で實習してゐる若紳士を見かける。
最近に來た獨逸表現派の「カリガリ博士」といふ映畫は、實に素晴しい物だつた。出てくる人物は少しも出てくると思はせない。全く彼等の生活の中に生活してゐる。それは實に靜かだ。數秒の間おなじ背景の前におなじ姿勢(ポーズ)をして立つてゐても、觀る者の心は、息苦しいほど働いてゐるのだ。人物が歩いて來るとしても、豆人大の遠方から、等身大に見えるまで、一つ背景の中を來るのだ、背景は少しも變らない。從つて動きもしない。そしてその背景がまた素晴しい印象的な人工的な自然であつて、最も自然らしい自然だ、見ないものにそう言つただけでは解るまいが、背景も繪なら、人物も悉く繪なのだ。どうしてとつたものかその人物も悉く、輪廓の線の太い、描いたやうながつしりした背景にしつくりあてはまつてゐるのだ。これを見ると深山幽谷や風光明媚の地へわざ/\出かけて通俗な背景を作ることよりも、人工的なこの背景の方がどの位效果的(エフエクチープ)だかわからない、つまり自然そのもの、寫眞よりも描いた背景の方が、ずつと本物らしく、感じが深いと言へる。人物の動作にしても、わかりきつた筋書を、さも尤もらしく、大の男が商賣、とは言ひながら、徒らにせか/\と運んでゐるのは馬鹿々々しい。捕るにきまつた山の中へ哀れな少女が出かけると、ちやんとそこには舞臺でおなじみの、觀客諸君にもかねてお馴染みの惡漢が、突然實に偶然らしく、ちやんときまつて表はれる從來の活動に比べると、表現派の方は、偶然や當然は通り越した必然さを持つて表はれる。尤も登場人物が狂人だから、役所の役人の椅子が馬鹿げて高く作つてあつたり、建築物が往來へ傾いてゐたり、空が三角形の破片で光つたりするが、この狂人の幻想が狂人の幻想でなく、やはり我々の中にある感覺にどこかしらぴつたりと入つて來て、自分も畫中の人物とおなじ幻想を感じるやうになつて來るのだ。就中、カリガリ博士がサーカスの馬車から逃げ出して病院へ歸る路すがらの風景とあの博士の歩き方は、歩くというより立つたま々で坂をずつと上つてゆく、羽化登仙とでも言ふ走り方は、もの慘いほどはつきり今でも眼の前に浮いて來る。參考のためのスケツチをこ々へ入れておかう。
青空文庫作成ファイルより抜粋
竹久夢二 『砂がき』 より。 其の弐
東京地圖
東京に住んでゐては、東京のどこが好いのか、なぜ好きなのか解らないが、東京の新聞も入らないやうな山間の温泉場などへいつてゐて、雨に降りこめられて寫生にも出られないし、持つて來た本も讀みつくした時など、どうかして東京地圖など熱心に見てゐることがあります。なかなか懷しいものです。この町にもこの町にも住んだことがある、さう思ひながら、その時の生活や、生活の感覺を思ひ出します。
物心がついてからずつと東京に住んだ私にとつては、一片の東京地圖は、實に有機的な私の人文科學史です。いろんないやな記憶さへ、自分を憐む材料にさへ役立ちます。
少年の頃、鹽原の奧で桐の空の咲いた畑の端に腰かけて、電車の往復切符を、ポケツトから見出して、東京へ寄せる感傷的な詩をかいたことを思ひ出します。
さてどこが好きなのか、何故好きなのか、理窟はありません。おそらく日本の國土も、異國の旅へ出たらこんな風に思ひ出されることでせう。
青空文庫作成ファイルより抜粋